dareyorimonetai

誰よりも寝たい

団結せよ、人は一人では生きていけない。仕事ってなんだ?人生ってなんだ。

cakesの記事だったり、そのリンクから飛んで行って読んだその著者の別の記事内容だったり、ちょっと久しぶりにネットサーフィンする感じで大量の文章を読んで、なんとも言えない寂しさ、心の奥の痛み、予想がつかない未来への不安を感じたので、ここに記しておこうと思う。



cakesの有料記事だ。登録していない人は申し訳ない。記事を読んでいなくても伝わるように書いていくから安心してほしい。

ここで紹介されているのは、今年の電通社員が自殺した件についてで、その流れの中で、今の働き方や、経済のあり方が話されている。

世間一般からすると高給取りで、人から羨ましがられるステータスがある人たち。社名を言えば驚かれるが、長時間労働で閉鎖的な空間、環境で仕事があまりにも忙しいので、転職先を探そうという気持ちにもならない。

そしてこういう職場は得てして、同僚も上司も高学歴のハイアチーバーで、何でもできて当たり前、成果を出すのが当たり前。そこから降りるということは、人生の落伍者になるということ。給料やステータスの低い職場で働くことは耐えられない。

なぜそんなことににってしまうのか。それは、そういった人たちが真面目な人たちだから。適当な人は、嫌なことはすぐにやめてしまうし、継続も我慢も嫌いだ。だから勉強でも、仕事でもすごい人にはならないかもしれない。

でもハイアチーバーに比べたら、人生は楽しいかもしれないし、多分長生きである。

ストレスも少ないし、労働時間も短いのだから。

内容としてはこんな感じなんだけど、まずこれが正しい意見なのかというとそんなことはないと思う。見る側によって意見は変わるだろうし、レースの上位を走っている人たちからすると「負け組の遠吠え」になるだろうし、普段も友達とはそんな話はしない。だって負けたことになっちゃうから。

だから友達と遊ぶ時は自分が今持ってる一番いい服を着て行き、一番幸せそうな写真をインスタグラムにあげ、各種SNSで自分の人生の充実をたたえつつ、日曜日の夜は早く家に帰って、地獄の月曜日に備えるのだ。

それが間違いなんじゃない。でもそれが正解なわけでもない。問題はどちらの世界を自分が選ぶかどうか、でも一回選んだら二度と帰って来られないわけではないよ。君たちだって、自分より下の立場の人間にはよく言っているだろう?

「いや君、今の君の環境は全て君が作ったものなんだから。もっと頑張ればすぐに状況なんてよくなるよ。甘えずに、人のせいにせずに、もっと頑張れよ。」って。

それで頑張って結局おじいちゃんおばあちゃんになって、病院のベッドで一人でこう思うんだ。

「もっとやりたいことやっとけばよかった」

みんなそう思うんだってよ。みんな実感としてわかってる。楽しくもなんともない、それどころかストレスを感じている職場ならばやめちまった方がいい。そこまで無理して生きる必要はない。仕事辞めたって人生終わるわけじゃないよ、いつでも戻って来られるよ、大丈夫だよ。

でもそれをみんな心の中で自分に唱えながら、実際は自分ではなく、周りの誰か、特に自分と立場を競っている誰か、自分の仕事に、出世に邪魔になる誰かが、行動に移してくれないかと期待しながら、また同じように地獄の5日間を過ごしているんだ。

土曜日曜があるじゃないか!そこで勉強して、新しい知識を増やし、ドンドン新しいことに挑戦しなよ!

いえいえ、ストレスフルな平日は夜寝ただけで癒されるものではないよ。そのストレスはお買い物だったり、友達とお酒をひたすら飲むことだったり、軽い気持ちで合コンするようなことじゃないと、癒されないんだよ!金曜、土曜は大変なんだよ!え?日曜があるって?バカいっちゃいけないよ。平日の疲れがあるから昼過ぎまで寝てないといけないし、お友達に最近買った服を見せに行かなきゃいけないし、何より明日に備えて癒されなくては!自分を癒す必要があるわ!

って感じだ。

よくわかる。非常によくわかるぞ。だって自分もその歯車に乗っているから。綺麗に乗っている、とてもわかりやすい。

ただ自分は電通みたいな一流会社じゃないし、もちろんアクセンチュアでもない。(アクセンチュア好きだな)

先輩が起こしたただのベンチャー会社である。別に肩書きだってないし、実績だってない。給料も良くないし、ボーナスもないし。

でもそんな僕にも僕の階級の間で、そういう意地の張り合いだったり、ヒエラルキーを守り、奪い合う戦いがあるのだ。

今の日本人の大半は、自分をエリートだと思っていないと思う。でもそこまで下じゃないとも思っている。だからこそ、自分はそこまでヒエラルキーに影響されていないと思っている。

でもこの記事に書かれていることは、みんな思い当たることがあるはずだ、どんなヒエラルキーでも戦いがあり、見栄の張り合いがあり、そこから脱落した人は死ぬか、または死んだような扱いになる。

その階級の世界から抹殺されるのであって、別に死ぬ必要はない。他の階級に移って、上から再スタートさせるか、または階級の枠を飛び越えた世界に移ろうとするのか。

そういう世の中になっているのだから。

人は大体最終学歴の学校、コミュニティが付属している階級の世界にとらわれることが多い。大学でいうと、トップ大学と、次の中流の大学、そしてその他多くの大学・専門学校、そして大学・専門学校に行かなかった人。端的に言ってもこの4パターンで世界はがっつり分かれて行ってしまう。本当に、がっつり別れる。隣の国境の人に触れる機会はあるけど、一段飛び越した人と知り合う機会なんて本当にない。テレビの中の出来事なんだ。

これは会社とか、学校っていうコミュニティの中だけの話ではない。人は自分と近い匂いのする人間と惹かれ合う。基本的には、同じコミュニティ出身の人と惹かれ合うのだ。

飲むときに訪れるお店、よく行くご飯屋さん、服を買う店、物を買う店、髪を切る店。そう言った場所は、自然とコミュニティで住み分けされており、国境を誤って踏み込もうものなら、とんでもない居辛さ、疎外感、アウェイを感じるのだ。

だから普段から、自分のコミュニティが属する店に行く。よく行く店の平均したグレードが、あなたの階級だ。周りの友達10人の平均年収が自分の年収って言われる所以だ。

だから恐れてはいけない。その階級から降りることを恐れてはいけない。別にその階級のレースに負けても大丈夫、平和なこの時勢、銃で撃たれることもなければ、子供が攫われるわけでもない。もちろん、危険性は多少高まるかもしれないけど。

でも、それでも死ぬよりマシだろう。その階級にずっと止まっていなくてはいけない理由が、プライド以外にあるのかい?将来の不安かい?でも将来なんて、一体誰が予想できる?5年後にまだ地球があるかどうかすらわからないのに。見てみろよ!今やトランプがアメリカの大統領だ!

だから逃げても大丈夫だから。今あなたが気にしていることは全て「今の階級で大事なこと」で、これから行く新しい階級には関係ないことが多いから。

同じ階級の、少し給料が高い会社に行くっていうのもいいよね。僕にはよく理由がわからないけど、それによって当人がハッピーなら最高にハッピーだよ。

でも一旦足を止めて、自分の人生を振り返って、大切な人の顔を思い出して、子どもの頃大好きだったことを思い出してみよう。別に子供みたいに純粋無垢に生きろとか、夢を持て!っていうわけじゃない。自由に生きろって、自由を強制する気もない。ただ、人生辛すぎるんだったら、その道で走り続けることがきつくなってきたら、他の道に移って、少し歩いたり、立ち止まって、寝っ転がっててもいいんじゃないか。

たまには、周りに迷惑をかけてもいいんじゃないか。

正直な気持ちを相手に伝えて、頑張れなかったよって謝ればいいんじゃないか。自分が気にして守っていたつもりのものでも、相手にとっては、あなた自身の幸せのほうが大切なこともあると思うし。

だからやめちゃってもいいと思うよ。確かに不安だ、その気持ちはわかる。自分の知らない世界に行かなくてはならない。給料は明らかに落ちるし、来ている服も粗末になるだろうし、美味しいディナーは食べれなくなるし、週末にキラキラした街にキラキラした人たちと繰り出すこともなくなる。

でも平日は17時に帰れるし、仕事もまあまあ、悪くはないよ、生産性に溢れているわけではないけど。おばちゃんとのちょっとした世間話をする三時のおやつの時間が、いつもほっとする。ねむいなって思ってたらもう帰る時間だ。今日は昨日の続きのドラマを見た後に、この前ニュースでやってた半身浴っていうやつを家で試してみよう。来週は友達の子供が1歳の誕生日らしいから、お祝いがてら手作りのお惣菜でも持って遊びに行こうかしら。明日は土曜日だから、一日中好きなゲームをやっていよう。平日の夜も毎日のようにやっちゃうから、少し抑えないとな。。

なんて生活になるんだよ。

昔読んだ話で、ビジネスマンの話があるんだけど、

あるビジネスマンが休暇に出た。

いろいろなことから距離を置きたくて。

いわば、『バッテリーを充電し直す』といったところかな。

彼は飛行機で遠くの国まで行き、
ある小さな村に辿り着く。

最初の数日間、彼は村人たちを眺めていたが、
その中のある漁師の男が特に幸せそうで、
一番充実していることに気がついた。

ビジネスマンは興味を持ってしまって、
ある日、その漁師に近づき、
毎日彼が何をして過ごしているか聞いてみた。

その漁師は、こう言った。

「毎朝起きて、妻と子供たちといっしょに朝食をとる。
 それから子供たちは学校に行き、自分は釣りに出る、
 そして奥さんは絵を描き始める。

 数時間釣りをすると、一家の食事には充分なだけ魚が獲れるので、
 早々に引き上げ、あとは昼寝をする。

 夕食が終わると、奥さんと浜辺に散歩に行き、そこで夕日を見る。
 子供たちは目の前の海で遊んでいる」

・・・とね。

ビジネスマンは、この話に驚いてしまった。

「そんなことを毎日しているのかい?」

と、彼は、その漁師にたずねた。

「だいたいは、そうだね」

と、漁師は答えた。

「時々、違ったこともするが、まあ、いつも同じようなことだ。
 そう、これが私の人生なんだ」

「で、いつも魚は獲れる?」

ビジネスマンはさらに尋ねた。

「そうだ」

と、漁師は答えた。

「魚はたくさんいるからね」

「それじゃあ、家族にもってかえる分より
 多くの魚をとることもできるのでしょう?」

と、ビジネスマンは尋ねた。

漁師の男はビジネスマンをじっと見つめ、
ニコリと微笑を浮かべながら答えた。

「ああ、そうだとも。時には必要以上獲れることもあるが、
 そんな時は逃がしてしまうのさ。
 わかるだろう、私は釣りが大好きなんだ」

「だったら、なんで一日中釣りをして、
 できる限り多くの魚を獲ろうとしないんだ?」

と、ビジネスマンは聞いた。

「そうすれば、その魚を売ってお金儲けができるじゃないか?
 そうすれば、すぐに二艘目のボートが買えるようになる。
 三艘目も。それで、その船に乗った漁師が
 もっともっとたくさんの魚を獲ることができる。
 そうすれば、数年で大きな都市に事務所を構え・・・
 賭けてもいい、10年もすれば
 他の国に魚を輸出して大成功することもできる」

漁師はまたビジネスマンを見つめながら微笑んだ。

「なんで、そんなことまでしなければならないのかね?」

「それは、お金のためさ。
 そうすれば金がたんまり儲かるし、そうなれば引退さ」

「で、引退したら、いったい私は何をするんだね?」

漁師は笑みを浮かべながら、
ビジネスマンに尋ねた。

「それは、そうなったら好きなことをすればいい」

「たとえば、家族といっしょに朝食を食べるとかかね?」

「そう、そうだよ」

と、ビジネスマンは答えた。

漁師の反応が悪いので少し拍子抜けをしていた。

「それで、釣りが好きだから、
 したくなったら毎日少しでも釣りをすればいいのか?」

と、漁師は話を続けた。

「それでいいんじゃないかな。
 その時までに魚は少なくなってしまっているかもしれないが、
 それでも少しは獲れるさ」

「それから、夕方になったら妻と時間を過ごすということだね?
 浜辺を散歩して、夕日を見たりする。
 その時子供たちは家の前の海で遊んでいるということかな?」

と、漁師は聞いた。

「そうだよ。好きなことができるじゃないか。
 でも、その時ぐらいになれば、子供たちも、
 もうすっかり大きくなってしまっているかもしれないけれど」

と、ビジネスマンは答えた。

漁師はもう一度、ビジネスマンに向って微笑み、彼と握手をし、
バッテリーの充電がうまくいくようにと声をかけて去っていった。

 

っていう話で。
これと似たような話だよね。ちょっと違うかもしれないけど。

いつも自分の場合をこの例に沿って考えているんだけど、自分の今の欲望は、ひたすら読書してひたすら映画見て、ひたすら文章書いて、ひたすらスプラトゥーンしたい、っていう欲求なわけです。

別に高級ディナーを食べたいわけでもないし、それこそ自宅で食べられるならいいけど、なんか緊張する店に行ってマナー気にしながら食べなきゃいけないなんて、、しかもワインなんて出てきようものなら、「あぁ、これは深い味わいだ。シラーズ地方のロマネなソーヴェニオンがとってもスモーキー」なんて言わなきゃいけないんです。さすがにご勘弁願いたい。

旅行も行きたい、確かに高城剛がよく言ってるマドリードに行って、夕焼けを見ながらカンパリでも飲みたい。でも別にそこまで仲良くない「お知り合い」と行くマドリード3泊4日よりも、昔から気があった悪ガキ仲間と、または大学の時に将来を語り合った親友と、弾丸ツアーでいく、激安韓国の旅2泊4日のほうが良い。全然良い。財布にも、心にも。

確かに、同窓会にはきちんとした格好で行きたい、やっぱりスーツかな、ビシッと決めていかないと。それともフリーな感じを出そうか、あえてラフな格好で、さりげないオシャレも交えつつ、フリーな社風を全面に押し出して、ベンチャー感100%で行こうかしら。

でも別に、そこのコミュニティと関係が切れたっていいんじゃない。特別仲がいい子とは、個別に連絡を取っていればいい話。階級が違うと話が合わなくなるのが心配?大丈夫、話が合わなくなったなら、あなたには新しい階級の友達ができているよ。

バカにされるのが怖い?大丈夫さ、新しく入った階級では、昔の階級の人の悪口で盛り上がってるよ。つまりそういうことだよ。どの階級に行っても、他の階級の悪口を言ってるってわけさ、そこに「良い」、「悪い」なんてない。悪口言ってもしょうがないって?その通りさ、まずは自分からやめてみればいいじゃないか。

そんなことだから、結局やめてもそこまで変わらない人生が待っているよ、きっと。普段の生活に対する不安がたまらないって?確かにそうかもしれないね。それで?あなたの今の階級では、働き続ければ素晴らしい老後が待っていそうかい?いや、そんなことはないだろう。

年金が破綻するのは目に見えている。ついに去年ぐらいから人口が減り始めた。信じられるか?この日本という国では、人間という哺乳類の数が減り始めているんだぜ?

それでもそのまま、働き続けるかい?毎朝重い頭を枕から引き剥がし、心を無にして電車に乗り、ただただ目の前のタスクをこなし、上司の嫌味に耐え、他人の評価を下げて、自分の評価を上げる。そして気づいたらもう終電の時間が近い。今日は家で一人で飲もうか、それとも行きつけの居酒屋で一人で飲もうか。。。

何のために生きているかがわからなくなるっていうのは、すごい状態だ。もし世間一般に言われているような陰謀論が原因で、世界の偉い人たちが愚民どもに言うことを聞かせるために、そういう環境を整えているとしたら、そいつは本当にすごいことだ。

だって、仕事をしていて、何のために生きているかわからなくなるって、、、仕事っていうのは生きるためにやることの一つであるのは当然で。いかに今のホワイトカラーの人の仕事が、生活から隔離しているか、そしてみんな仕事のために仕事をしている状況だってことが、わかってくるってものだ。

そしてこうなる。

 



だからもし今の現状の状況が非常に辛いのであれば、一回立ち止まって自分のやりたかったこと、やりたいことって何なんだろうって、考えたほうがいいんじゃないかと思う。でもきっと今それは無理だろう。仕事で消耗しすぎて、本当に落ち着いて、考えることなんて不可能だろうから。だから割としっかり時間を空けて、(例えば仕事なんてやめてしまって)ゆっくり考えてみるといいかもしれない。昔の仕事が懐かしくなってくるかもしれない。意外と仕事のこんなところが好きだったんだっていう場面も思いつくかもしれない。

それともやっぱりやめてよかったって思うかもしれない。改めて強くやめたいと願うかもしれない。あなたは一人だけど、でも大丈夫、みんな一人だし、みんな、周りの困っている人は自分のできる範囲で助けたいと思っているよ。だからその人ができる範囲で甘えてしまおう。

それぐらいの気持ちで挑めばいいのではないか。あなたはカリブのビーチで1968年のロマネコンティを楽しめないかもしれないけど、銀座のレストランで愛する人と豪華なディナーを楽しめるかもしれない。ディナーが無理な人も、行きつけの飲み屋でおでんをつつきつつ、恋人とじゃれあいながら熱燗を楽しめるかもしれない。それが無理でも、家でコタツでのんびりしながらくだらないテレビに二人でそれぞれ言いたい放題言えるかもしれない。

別に愛が何よりも大切っていう気はないけど。自分にとって大切な人と、同じ時間を共有して、何より楽しく生きるってことが、一番大切なのではないか。

そして、楽しく生きるためには、心のゆとりが重要な要素であることもあるし、何より時間が大切なのは間違いがないし、TIME IS LIFE なわけで。

だから嫌なら辞めてもいいと思うし。新しい仕事が必要なら、田舎にでも出てみるといい、家賃も安いし。そんな時大事になってくるのは、友達の有無だと思うから、近所に友達がいる場所のほうがいいよ。ただその友達っていうのも、以前の階級から引き継いでいる友達だった場合は、疎遠になるかもしれないから、新しい階級で新しい友達、または階級とか関係なく仲のいい(はず)の友達を作ることを意識しておいたほうがいい。別に無理やり作らなくても、チャンスが転がってきたら、手を伸ばして掴むぐらいの用意はしといたほうがいい。

それに大概、前からの自分の友達は前の自分と同じ境遇のことが多いから、階級にとらわれない、それでいて自分の立場が分かってくれる愚痴をひけらかす相手を求めているはずだ。君はそんな友達のベストパートナーとなるだろう。相手は階級を気にせずしゃべれるし、「お前はいいよなあ」って言って満足げに帰るだろう。

そんなの友達じゃないって?そうかもしれない。でも結局突き詰めていくと、友達として好きになって、長年付き添うような奴は、自分にとって「何かしら利益をもたらしてくれる存在」だから友達なんだよ。

「一緒にいて楽しい」も十分な価値と思わないか?相手にとってそれが価値を感じられるのであれば、自分も楽しめるだろう。自分の好きな人が喜んでくれているんだから。

そこを気持ち良く受け入れられないなら、新しい友達に移行していくタイミングかもしれない。いや、君は悪くないよ。悪いのは仕事を続けて頑張っていて、先週買った時計のことを自慢げに話してくるあいつさ!

というわけだから、安心してくれたまえ。君にとっての生涯の親友は、まだ現れていないかもしれない。これからの、新しい階級で出会うのかもしれないのだから。そして、生涯の伴侶となる、または好きで好きでたまらないような相手も。

新しい人生に不必要に希望を持つ必要はないよ。浮かれる必要はない。ただ、毎日を楽しく暮らせるように、それだけを大事に考えて、生活していけばいいと思うよ。

楽しいことばかりではないだろう。来月もまた家賃を払わないといけないし、毎月自分が自由に使えるお金は全く増えていないかもしれない。でも、きっと何か掴み取ったものがあるはずさ。少なくとも上司の小言を気にして、常に周りからの視線を気にしながらの生活の終わり。少なくとも、夜は自分の時間が取れて、仕事の連絡は全く来ない。ぼーっとして仕事してる日が月に4日ぐらいあっても、有給使って三連休にしてみても、怒られないし、嫌味を言われないし。

それが幸せな人生につながるかどうかはわからないけど、のんびりしているからこその生活がこれっていうのであれば、ある程度納得はいくだろう。もちろん、どんな環境に移ったとしても、満足度や幸せっていうのは考え方だから、そこを改革していくことは常に重要な部分であるとは思うけどね。

でもやっぱり仕事に悩んで、アドラー心理学の本の「嫌われる勇気」っていう本がベストセラーになる日本って、結構病んでるし、それは周りだけじゃなくて、実際にその本を読んだあなた自身もそうなんですよ。

今の自分の状況を、小学生の頃の自分に話してみてごらんなさい。「え?なんでその仕事してるの?楽しいの?なんで生きているの?」って言われるのがオチでしょう(僕は本当に言われるだろうな、小学生の頃の自分は本当に容赦がないだろうから)

だからそれぐらい、それぐらい真っ白な気持ちで、毎日の生活を思い出してみればいい。朝の通勤ラッシュの時間に、駅を歩いている人たちの顔を。学生はまだいい、まだ眠いなあとか、だるいわあ、とかって顔の奴が多いから。キラキラしている奴もたくさんいる。おっさんはダメだ、お姉さんもダメ、おばちゃんもダメだし、お兄さんもダメだ。みんな絶望的な顔をしている。都会の人は大体そういう顔をしている。

田舎は時間が流れるのが遅い。日が沈んだら仕事は基本終わりだ。帰って家族と少しお話しして、ご飯食べたらちょっとテレビでも見て、今日は先週読みかけの本の続きを読んでしまおう。。。

香川出張の時も実感したけど、やっぱり田舎は時間がゆっくり流れている気がしてならない。あまり急いでいる人はいない。みんなスマホ持っているのは一緒だけど、もっていない人もたくさんいる。

きっと「要領よく、たくさんの仕事を片付ける方法」みたいな、都会のサラリーマンなら必ず一度は見たことがある記事だって読んだことのない人たちが、のんびりと仕事をしている。締め切りなんてないさ、そりゃ年に何回か忙しい時期はあるけど、都会では毎週だものね。

スローライフっていうとおしゃれな感じになるけど。簡単にいうと、消化するコンテンツの量が少ないってことだよ。本当に端的に言ってしまうと。人生で消化するコンテンツの量が少ない、やることが少ない、体験するシーンや経験が少ない。でも「少ない=悪」っていう考え方は、都会で信じられているだけの妄想かもしれないよ?少ない分、思い出は深く残るかもしれないし、時間がある分、楽しかった思い出を思い出す時間だって、クッキー片手にアルバムをめくることだってできるかもしれない。

極論を言えば、人生を楽しめていない人っていうのは、仕事が楽しくないんだろう。でも、本来仕事は楽しくあるべきだろう。人に価値を提供するのが仕事なんだ。あなたのやったことは、きっと誰かを笑顔にすることなんだから。

今の楽しくない仕事を楽しもうとするのはすごく大変だと思うけど、少しでもそうなるような考え方をインストールして、なんとかして楽しまなくてはいけない。きっとここまで読んでいる人は、仕事やプライベートで不満やストレスがある人だろう。きっとそうやって我慢しているってことは、あなたはいい人だ。

いい人は割と人生損することも多い。ずるい人には勝てない。だって、ずるい人は、いつも勝つことを考えている人が多いから。というか、そういうことが得意な人のことを、我々いい人は「ずるい人」と呼ぶのだ。

ではどうすればいいのか。方法はいくつかあるだろうが、まず人間にとって非常に大事な点を確認しておこう。それは「信じること」と「助け合うこと」だ。

いきなり宗教チックな話になってしまった。しかし、人間は弱い生き物で、基本的には一人では生きていけない。そして、仲間と協力して生きていくには、人を信じることが必要である。

もちろんその信じ方には強弱があって、「誰でもかれでも手当たり次第に信じよう、それが僕らの宗教さ⭐︎」ってことが言いたいわけではない。信じている度合いは人ぞれぞれ、対象それぞれによって差があっていい、大事なのは信じるという行為そのものだ。

「与えよ、さらば与えられん」みたいな言葉があったけど、要は「give first」ってことで。その階級で生きていく際に重要なのは、信頼できる仲間がいるってことだ。そして信頼とは、自分が相手を信頼することで得られるものである。優秀な営業マンは信頼を勝ち取ることが得意だろう。でも自分が相手のことを信頼していない場合は、相手からの信頼もあくまで「仕事上の信頼」である。きっと、あなたが本当に求めているものではないはずだ。

だから信頼っていうのは、信頼することでしか手に入らない。じゃあどうなったら相手を信じていることになるのか、基準値はどうなるのかってことになるけど、僕は最近それを「どこまで相手を許せるか」じゃないかと思っている。

相手を許す。許してあげる。これこそが信頼の尺度となりうるものである、またすべての宗教の起源なのではないか(やっぱり宗教っぽくなった)

一人の人物を思い浮かべて、この人のことをどこまで許せるかと考える。多少の裏切りならok?お金はどう?友達に悪口を言われていたら?彼女を寝取られたらどうだろう。

それを全部考えて、自分が思い描ける最大の侮辱、最低のこと、起こりうる最も起こってほしくない事件を考えて、その上で、もしそれを相手にやられても無償で許してあげられるかどうか。それこそが愛であり、それこそがガンジーや数多の宗教リーダーが唱えた言葉なのかもしれない。

「それこそが愛かどうか」は置いておいて、信頼の尺度はどこまで許せるかの度合いによって、示せると言えるだろう。

自分は普段から意識してそういった人物を思い浮かべ、こいつなら何されても許せるな、という人物を想像したりしている。その人数が増えれば、それはそれで幸せだと思うし、減ってもまた増やせばいいし。

非常に話がずれてしまっている気がするけれど、とにかくここまでで既に3時間ぐらいぶっ続けで書いている。そりゃ頭がこんがらがって、論点もズレるだろう、ということで勘弁してほしい。そもそも小説一冊書く間に、一つも矛盾が出てこない方がどうにかしている。きっと小説家にとって、自分の小説の中の登場人物は明確にイメージがあるんだろうな。

何が言いたかっていうと、最初に出した記事に感情が刺激されて、仕事を辞めようと思っている自分の、まだあまり触れてほしくない部分にガシガシ触れてきたから、どうしても自分の感情を吐き出したくなったってことです。

最終的に来年2月とかの自分が、どんな結論を出すかわからないし、借金だらけの今の状態から本当に仕事辞める気か?って感じもするから、本当に、本当に未知なのだけれど、たまにこういう内容を書きたくなることがあるっていう時点で、自分の根幹にはこういう考えが流れているのかもしれない。もっと深くまで掘り下げて、自分のことを分析してみるのもいいかもしれない。

まあでも辞めてみると、わりと新しい人生が強制的に始まって、楽しい人生になるかもしれないけど。もちろん、そんな楽しくないかもしれないけど。

でもまあぼちぼちでこなせるような仕事が自分には向いているような気もするけどなあ。

寝たい、本読みたい、映画見たい、漫画読みたい、スプラトゥーンやりたい、っていう欲求だけだからさ。ドワンゴの川上さんが「月額50万でやりたいこと全部できるなってずっと思ってた」って言ってたけど、本当に自分はその通り、むしろ30万あったらとりあえずゴールまであるよ。ケガとか病気とか、親が倒れたりとかに対応できないけど。

自分が幸せに生きられるようにしていきたいなあ。35歳とかになってまで、社会の地位獲得にあくせくしていたくない。

というか、今話したかった内容思い出した。信頼っていう話から、団結しようぜっていう話をしたかったんだ。

 

これは単純に仲間と団結しようぜっていう話なんだけど、一人だとやっぱり人間は寂しいわけですよ。だから人生には仲間が必要。その仲間は信頼することで作れる、そんな流れで信頼の話をしていたら、話題がどんどん逸れて、結果さっき「自分の自己分析をしよう」みたいな話に落ち着いてなかった?

自分で見てても書くのが疲れてきたなってわかる。。途中で話題放棄しようとしている感じがすごい。もうやめよう、、疲れた、、ってなってる。でも今回は非常に重要は話をしているし、特に我ながら最初の方はよく書けてるなって思っているから(まだ見直してないけど、うっすらいい記事だなって思いながら書いてる)ちょっと最後まで書いてみようと思う。ちょどいい、自分の自己最長ブログに挑戦だ。(たぶんこの時点ですでに最長)

団結の話だ。僕は昔から映画とか、小説とかっていう、ストーリーが語られるコンテンツが大好きなんだけど、そこに共通しているのは、仲間との友情物語である。男女の愛も然りだ。ストーリーは必ずここが語られている、それは「友情が成功している話」かもしれないし、「友情が破壊されたことによって捲き起こるドラマ」かもしれないし、「過去の友情が破壊されたことによってひょんなことから出会った二人が、新しい友情を築きながら周りとの友情を再確認し、困難と立ち向かいながらゆっくりと友情を完成させてきたのだけれど最後にまたぶっ壊れる話」かもしれない。

どちらにせよ、ストーリーには、基本的にそこに登場するものの友情が語られている。ストーリーとは、人間と人間(または他のもの)との関係性のお話なのである。

そこで団結の話だ。人が一人で生きていけないのは確かなことなのだけれど、それとは別に、今の世の中にはものが増えすぎている。一年に一回しか使わないのに、自分が所有しているものってどれくらいある?それって本当に所有している必要があるんだろうか?

本なんて最たるものだ。普通は1回、どんなに好きでも2年ぐらい置いて読む。ビジネス本的なものでも、5回読んだらもうだいたい頭に入っているから、何かあった時に、その時のメモを読むだけでいいだろう。

じゃあそれって、友達みんなが一冊づつ買う必要ってあるのだろうか。確かに、コンテンツにお金を払うっていう意味では、しっかりと一人いくらかを払うっていうのは大事だと思うけど。でも知識なんて、共有してやっと価値のあるものになっていくのだから、どんどんシェアできるように、本自体もシェアできるようになったほうがいい。

本だとどうしてもコンテンツの消費の問題(知的財産的な問題)があるから、ちょっと例として適切ではなかったかもしれないけど、まあ言い方を変えると、自分が読んで必要なくなった本は、図書館みたいな感覚でガンガン人に貸してあげるほうがいいと思うんだよね。著者にとっては、他の著作を買ってもらえる期待値が増える分、ファンが増えるっていう意味ではまず読んでもらうことのほうが大切だし、何より仲のいい友達にオススメしてもらった本を読んだ人は、ファンになる可能性が非常に高いことはわかっているだろうし。

シェアでわかりやすいのは、車とか。あとはスーツケースとかも旅行でしか使わないのであれば、一年で使って2週間とか?スーツだって、僕はもう冠婚葬祭とたまにフォーマルなMTGぐらいでしか着ないし。それなら一年に5日ぐらいだから、家でずっと寝かしているより何人かでシェアしたほうがよくない?

シェアがいいのは、まず環境に優しいこと。よくわからないけど、ものを減らすっていう意味では環境にいいってことらしい、みんながいいって言ってくれるのであれば、勝手に言わせておこう。あとは、自分が知らないものに出会うことが多くなること。シェアすることで、自分では絶対に買わないものに出会ったり、新しいアイデアにであることが多くなる。

あとはお金が節約できるっていうこともでかいと思うし、何より大事なのは、人とのコミュニケーションする時間がどうしても増えるってこと。確かに人間関係は面倒くさい、ロジックだけで進めれればどんないいいだろうかって思うよ。でもね、何度も言うけど人は一人では生きていけないんだよ。だから他人とうまく折り合いをつけて生きていかなくてはいけない、それが嫌なら練習するか、誰か他の人に代わりにやってもらう必要がある。

じゃあ練習するとしたら、まずは友達とさらに仲良くなったり、友達と喋る練習をしていけばいい。そのためにシェアっていうのは一番いい気がしている。シェアがうまくいくコツは、どれだけ他人のことを許せるかだ。例えばルームシェアなんて最たるもので、違う人間が同じスペースで生活しているんだ、いざこざ、というか、何らかの摩擦は起こって当然である。その時に、まずは相手に自分の不満を伝えなければいけない、自分は冷静に、しかも相手の気分がいい時にうまく伝えるのがベターであろう、アロマなお香でも焚いて、イマジンでも流しながら「ピース」って言いながら伝えるのがベストだ。

そうやって自分の意見を言うことに挑戦していこう。大丈夫、相手は友達さ、多少しくじっても、後できちんと謝れば許してくれるさ。最初から自分の気持ちをあけっぴろげにして話してしまうのもいい。「俺、うまく伝えられないから怒らないで聞いて欲しいんだけど、、」ってさ。

それで怒る奴なんて、友達にいないだろう?(例えいたとしても、さすがにルームシェアはしていないだろう?)

そしてそれと同時に、相手の意見を聞く練習をしていこう。自分にはこんな意見がある、こんな言い分がある。じゃあ相手にもきっと考えや意見、不満、不安があるはずだ。じゃあそれを聞いてみよう、お互いに満足して着地できるところを探っていこう。一晩じゃとても足りないかもしれない、でも大丈夫。君たちはルームシェアしているだろうから、共有出来る時間はたっぷりある。

そうやって、人との距離の取り方だったり、共感する力が育まれていくのだ。たぶん、仕事もそういう側面があったりするんだろうけど、他人とそれをガンガンやっていくのって、やっぱりメンタルきついと思うんだよね。

だから、まずは仲のいい友達と時間をシェアして、より仲のいい人を増やしていけばいいよ。人生に絶望した時に、会いたいなって思える友達がいるだけで、きっと踏ん張れると思うし。それこそ、シェアの考え方で、突然いくよって言っても気軽に泊めてくれる友達が日本全国に入れば、チャリで日本1周だって夢じゃないさ(実際その方法で日本移動するっていうのやってみたい)

友達の定義っていうのを、考えたことがあるんだけど(そんなことばっかり考えている)自分の結論では、「距離」と「時間」の問題がとても大切だなって思っている。まず先に「距離」の話をしておこうか。それは心理的な距離でもあるし、物理的な距離でもある。

心理的な距離っていうのは、その友達のことをどれだけ好きか、信頼しているかってこと。まあ仲良しの尺度と言っていいかもしれない。物理的な距離っていうのは、すぐ会える存在か、気軽に会える存在かってことだ。

「遠くの身内より、近くの他人。」みたいな言葉あった気がするんだけど、それと同じだね(たぶん)簡単に言うと、住んでいる距離、実際にいる距離が近ければ近いほど、その人に対して親近感を得るっていう現象があるわけ。これは説明不要だと思うけど、つまり人間が相手に対して親近感を得る要素の中で、とても重要なのが自分と普段どれくらい近くにいるか(どれくらい簡単に会えるか)っていうことで、めちゃくちゃ仲のいい親友でも、北海道と沖縄にいるんじゃなかなか会えない。その分、近くに住んでいる友達と会う時間が増え、その近くに住んでいるだけの友達と共有する時間が増え、相手に対して信頼を感じるようになる。

そしてこれはつまりどういう意味かっていうと、どれだけ時間を共有するか、しかもこれは心理学的な側面だけど、より大切なのは長さよりも回数なんだよ。つまりAという人間と100分語りあった場合と、Bという人間と5分の話を10回するのとでは、Bという人間に対しての方が、信頼感や親近感を感じるっていう人間の特性が効いてくるってこと。

だから信頼してもらいたい人、好きになってもらいたい人がいたら、長時間一緒に過ごすことよりも、回数を重ねることが大切なんですよ。ぜひご活用ください。

だから、近くに住んでいるっていうのは非常に重要で、高校生や大学生の時の友達がなぜ一生の友達になるかって、短期間(大学でも4年間)の間に、それこそバカみたいに顔を合わせるから。仕事でも合わせるよって言われると、そりゃそうなんだけど。まあ世間一般の会社がリモートワークが可能でもなかなか「事務所に集まって一緒に働く」っていう作業を止めれないのは、顔をあわせるだけでも社内の人間関係がうまくいくからだ。(もちろんそれ以外にも理由はあるけども)

まとめると、人生をエンジョイするには、仲いい人がいたほうがいい、そのためにはシェアしたほうがいいって話。近くに住んでいるっていうか一緒に住むっていうのは、人と一気に仲良くなる方法の一つだと思う。

あとはシェアしていることで、固定費が下がることが多い。家賃も折半、ネットも折半、シェアメイトがもらってきた食料も折半。基本この日本では一度に大量に買ったほうが安いようになっているから、一緒に大量に買ってシェアしたほうが安価で済む。食料しかり、洗剤や消耗品はほとんどそうだ。(オーストラリアはそうでもなかった。500mlのコーラと3000mlのコーラがほとんど同じ値段だった気がする。なぜか、少しの飲み物を買おうとすると飛び上がるほど高いのだ。)

そして、固定費が下がると何がいいかって、移動がしやすくなる。たとえば家がなければ、家賃に使うはずだったお金を旅の代金に回せる。簡単に言えば、家を解約するだけで、あなたは家賃分の収入を得るのだ。(もちろん、家がない時の不安感は半端じゃない。寂しさ、孤独感、恐怖は二度と味わいたくないなとは思う。)

なので家がない、は極論だけど、普段から2~3万の家賃で生活して、ネットとか水光熱もシェアすると、かなり固定費は削減できるはずだ。

言ってしまえば、その浮いた金であなたは仕事のレベルを下げることができる。そこまで忙しくしなくても、家以外は今までの生活水準で生きていける。家って大事だけど(特に冬寒いのはいけない。寒いと人は孤独を感じる)寒い夜も帰ったら友達がいて、エアコンつけて温まってるのを見るだけでもホッとする(少なくともエアコンが回って暖かくなるまで、ひもじい気持ちで待つ必要がないし、何よりこのエアコン代だってシェアなのだ!50%引きだ!)

友達と時間を共有しよう、そして、友達が持っていて自分が持っていない素晴らしいもの(性格だったり、何かものだったり、その友達の友達だったり、考えた方だったり)を見つけて、学ぼう。人生が勉強だ。勉強が楽しいと思えるのであれば、大丈夫だ。あなたは回復している。(誰)

結果的になぜこういった話になってきたかというと、自分が信じているものがそこにあるからだ。僕は友情を信じている。

僕はどちらかというと一人でいることが好きだが、友達といる時間も大好きだ、人から褒められるとワクワクするし、人が喜んでいるのを見ると自分まで嬉しい気持ちになる。

だから、友達を作ることこそが人生だと思う。そしてその友達と楽しく生きることが人生が思う。

別に何を達成しようが、どんな発見をしようが、いくら稼ごうが、何でもいいのだ。今が楽しければ、それでいいではないか。きっと人生に困難はやってくる。もう勘弁してくれ、そう思うこともいっぱいあるだろう。

そんな時に必要なのは、心に安静をもたらしくれるお金もそうだろう。でもそれよりも大事なのは、「マジやばくね?どうする?」って話会える仲間であり、他人事ではなく、自分ごととして一緒に問題に対する対処を考えてくれる仲間であり、そんな危機な状況も一緒に楽しんでいける仲間である。

それが本来仕事になるべきなんだと思うけど。つまり、自分たちに降りかかる問題を、なるべく楽しみながらクリアしていく、そのための集まりが「組織」だったり「会社」だったりするんじゃなかったか。仕事っていうのは、周りを幸せにするものではなかったか。

もう一度、奥考えてみることだ。僕も考えてみるから。